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「人間は書物のみでは悪魔に、労働のみでは獣になる」
(徳富蘆花)
"(via atorioum)
(hazy-moonから)
"文学の営みとは区別された機能としての批評、専門的で職業的な批評は、新聞や雑誌の文芸欄や書物として登場するのだが、そうした批評がうさんくさいもの、存在理由なきものと映るということも、もちろんありうるだろう。けれども、批評の源泉は聴衆や観衆や読者の精神のうちにある。こうした受容者たちの振る舞いそのものとしての批評が存在するのだ。美的喜びに溺れることで満足することなく、受容者は、語らねばならないという抗しがたい欲求を感じる。芸術家が作品について当の作品以外のことを語るのを拒む場合にも、受容者の側には語るべきことがあるということ、――黙って観照することはできないということ――、それが批評家の存在理由である。批評家をこう定義することができる。批評家とは、すべてが語られてしまったときにも依然として語るべき何かを有している人間であり、作品について作品以外のことを語りうる人間である、と。"
エマニュエル・レヴィナス、「現実とその影」、『レヴィナス・コレクション』、合田正人訳、ちくま学芸文庫、2003、p.303. (via left-field)
"人生の主な目的は神を讃めたたえることである。それにもかかわらず子供たちははなはだ現世的な学校というところで教育されなければならない。そして、キリスト教の愛が商品価値としてはほとんど何ももたないような競争社会のなかで、競争して生きていくためには、現世的で且つ世俗的な技術的知識を身につけていかねばならない。子供たちはそうすることを期待されている。"
R.D.レイン、A.エスターソン『狂気と家族』 (via hazy-moon)
"我々は連続的なる歴史を否定したのではなかった。しかしながら我々は連続的なる歴史と絡んで、非連続的な歴史をも承認んせんとしたのである。歴史はすべての過去をあげて、のこる隅なく現在の内に摂せられているのではない。歴史には現在の内に収め得ざる剰余があるのである。しかも歴史において現在の外にあり、現在を超えたものは、単に永遠なる意味ではない。永遠なる意味は歴史の意味ではない。歴史の意味は過去の意味でなければならない。過去の意味を現在の意味に翻訳して理解することは、過去の意味を殺すことである。いかにしてわれわれは過去の意味を過去の意味として理解し得るか。それには我々は現在中心の歴史観を一応脱却しなければならない。我々は現在からのみ過去に行くのではない。我々は永遠から現在に下りてくるのである、永遠から過去におりていくのである。しかもそれは過去を時間から捨象して、過去の意味を永遠化し、従って時間化し、意味を過去の意味として理解することなのである。かくしてのみ我々は過去の歴史を理解し得る。それが過去を了解することなのである。かくしてのみ我々は過去の歴史を理解し得る。それが過去を了解することなのである。了解とは元来自己の体験を超えたものを捕らえる事である。ディルタイにおいても了解とはかくの如き意味を有していた。過去の了解は単に現在の体験においてなされるのではないのである。現在の体験を超えた所に、過去の歴史の了解が成立する。"
高坂正顕、『歴史的世界』、京都哲学撰書、2002、p.25.
" 未来が、肯定的なものであるか、否定的なものであるか、という議論はむかしからあった。また、肯定的な世界のイメージや、否定的な世界のイメージを、未来のかたちをとって表現した文学作品も多かった。
しかしぼくは、そのいずれもとらなかった。はたして現在に、未来の価値を判断する資格があるかどうか、すこぶる疑問だったからである。なんらかの未来を、否定する資格がないばかりか、肯定する資格もないと思ったからである。
真の未来は、おそらく、その価値判断をこえた、断絶の向こうに、「もの」のように現われるのだと思う。たとえば室町時代の人間が、とつぜん生き返って今日を見た場合、彼は現代を地獄と思うだろうか、極楽だと思うだろうか?どう思おうと、はっきりしていることは、彼にはもはやどんな判断の資格も欠けているということだ。この場合、判断し裁いているのは、彼ではなくて、むしろこの現在なのである。"
安部公房『第四氷河期』現代文学秀作シリーズ、昭和45年3刷p.260. (via dempanken2)
"「いつ放射能に襲われるかは、人によってみんなちがうのよね。そういうふうにいわれてるでしょ?人によっては一週間も二週間も遅れて襲われるかもしれないし。だから、わが家でも、まずわたしだけがやられて、あなたとジェニファーを残して逝っていたかもしれない。そうでなければ、ジャニファーかあるいはあなたのどちらかが先に逝って、ほかの二人が残されていたかもしれない。どちらにしても、悪夢としか思えなくて……」
目ありはやっと目をあげて、ホームズと目を合わせた。涙の奧に笑みが見えた。
「でも今、わたしたちは三人一緒に、同じ日に放射能に侵されたのよ。ラッキーなことじゃない?」"
ネヴィル・シュート『渚にて』佐藤龍雄訳、東京創元社、2010年、再版、p.443. (via dempanken2)
"合理主義の哲学者や形而上学者は逆に「大括りの抽象化」から出発するが、これはぼんやりとした光しか投げかけてはくれない。なぜなら「一般化行為は諸概念からおよそ感覚的なところを奪いとる傾向があるのである。この手法を進めると、肉感の幽霊は後退し、諸概念は次第に想像力から悟性の方に引き寄せられ、諸概念は純粋に知的なものになる」。ディドロはニュートンと重ねられるこの脳髄による遠隔作用を、山の頂きから平原を見おろす数学者に譬えている。山頂から彼が唯我論的に観察するのは実は彼自身の思惟もろもろでしかない。他の誰も彼についてこの超絶の高みに行くことはできないし、そこの希薄な空気では生きていけない。"
『ボディ・クリティシズム』バーバラ・M・スタフォード、高山宏訳(国書刊行会)p223。 (via enjoetoh)
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ここが小説というものの底知れなさなのだが、読んでいるときはまったくおもしろくないくせに、読み終えて半年くらいたって、近所のラーメン屋でなんとなく野球中継を見ながら餃子を食べているようなときに、いきなりその小説の真価にはっと気づいて、まるで天啓を受けたようになり、あわてて家に帰って読み返すとちょうおもしろい、これはこういう本だったのか、と発見してしまう、というようなことが起こるのである。テキストが自分をひっぱり上げてくれる。だからこそ、最初に読んでちょっとくらいおもしろくなかったくらいで、テキストをかんたんに放り投げるというのは、してはいけないとおもう。
つまりは沈殿である。作者が書いた言葉は、すぐに読み手に伝わるとは限らず、記憶のどこかにいったん沈殿して、いつかふたたび意識に浮上してくる、というようなことが起こるのではないか。それがすぐに役に立つとか、ためになるとか、そういう損得ではなくて、時間をかけていろんな言葉を意識の底の方まで沈めていって、そこからしだいに自分でも予想しなかったような言葉が浮かびあがってくるのとかがちょうおもしろい。そうやっていろいろな表現や言葉がふくらんでいく。だから小説はたのしい。
"(via wideangle) (via skashu, milkcocoa) (via gkojax-text) (via nasubanana) (via ginzuna) (via bbk0524) (via hswh) (via popooo)
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多くの人は、昔の人たちは迷信深い非科学的な連中だったと思っている。その非科学的な部分、たとえば魔法だの錬金術だのを切り捨てることで、現代科学が成立したのだ、と。
本書『磁力と重力の発見』全三巻は、この通念をひっくり返してくれる快著だ。本書は説く。科学は魔法を切り捨てたのではない。むしろ科学は魔法の直系の末裔(まつえい)なのだ、と。それも極端に言えば万有引力というニュートン力学の根幹こそ、魔法の最大の遺産なのだ、と。
現代科学を妄信するぼくたちは、万有引力なんか自明だと思っている。でもそうだろうか。太陽もリンゴも、ぼくもあなたも、みんな「引力」とやらで結ばれている、だって? 徹底して合理的な機械論者たちは、そんな三流ナンパ師のくどき文句みたいなキモチワルイものは認めなかった。一方、ニュートンは、魔法や錬金術も研究していた。だからこそ「万有引力」という異様な概念を平気で導入できた。媒介無しに働く目に見えぬ力というのは、いわば魔法の世界に属するものだったからだ。そして間に何もなくても作用する魔法の実在の動かぬ証拠こそが磁石だった。本書はギリシャ時代にまでさかのぼり、そうした磁石の位置づけをたんねんにたどる。それも正解にたどりついておしまいの出来レースではない、ダイナミックな観念の歴史を、本書は各時代の世界観との関(かか)わりで入念に描き出す。
本書の世界観へのこだわりを、ぼくは懐かしい思いで読んだ。それはかつて著者に予備校で教わったものだったからだ。本書の著者名を聞いて、書評委員会は一瞬どよめき、自分の知らない時代のできごとが、三十年たっても深い刻印を残していることにぼくは改めて驚いた。それは多くの点でマイナスの刻印だっただろう。全共闘騒動の最大の損失は、山本義隆が研究者の道を外れ、後進の指導にもあたれなかったことだ、という人さえいた。でもプラスの刻印もあった。その事件のおかげで、ぼくをはじめ無数の受験生が予備校でこの人に物理を教われたのだもの。かれが教えてくれたのはただの受験テクニックじゃなかった。物理は一つの世界観で、各種の数式はその世界での因果律の表現だということを、かれは(たかが受験勉強で!)みっちりたたき込んでくれたのだった。
本書はその物理的な世界観を思い出させてくれた。同時に本書は、磁力や重力という常識化した概念/現象の不思議さに、改めて読者の目を開かせてくれるだろう。さらに本書を読むことで、世界はちょっとちがって見えるだろう。無味乾燥な科学が支配していたこの世界に魔法が戻ってきたのをあなたは感じるだろう。さあ、ハリー・ポッターに夢中になっている子供に、いつか本書を見せて教えてやろう。魔法の世界は、いま、きみの目の前にあるんだよ、と。
評者・山形浩生(評論家)
"予備校生時代,この方に物理を学んでから物理への苦手意識は消え去り,
物理どころか学問の奥深さを知った.
「新・物理入門」は擦り切れるほど読んで2冊め買ったなぁ.
バックグラウンドなんかどうでもいいですよ.
この方に出会えてよかった.
2009-02-12
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